糸かけ数学
実際にやってみるとうまくいかないもんだなぁ。
そして、ちょっと歪む。
画鋲じゃダメだなぁ。
そして、土台も10cmの幅じゃ小さいなぁ。
『糸かけ数学アートデザイン協会』の方々は木の板に釘なんだよなぁ。
学校で手頃な素材でできるもの、子どもたちが自分でできる材料はなんだろうか。
次は違うもので試してみよう。
『対話型模擬授業検討会』の可能性
僕の今の最大の関心は【職場】だ。
『校内研究をよりよいものに変えるにはどうしたらいいか?』という問いが僕のなかにある。
先日の、伊那小学校の研究主任の田畑先生のお話を聞きに行ったのも、堀先生のお話を聞きに行ったのも同じ問いからスタートしている。
そして5月5日は、粕谷先生主催の『対話型模擬授業検討会をやってみよう』の会に参加してきた。
この『対話型模擬授業検討会』ものすごい可能性を感じた。
・ホワイトボードミーティングの気軽さがある。
気軽に参加できるというのは、フラットに参加できる。つまり、参加者が安心して参加できることを意味している。人数が多すぎると、対話への参加度や身体の向きが変化することに気づいた。身体の向きとは、ホワイトボードに向かってできるかどうか。人数が多いと、人の顔を見てフィードバックをすることが増えて、授業者が『責められた』と感じる可能性があると思った。
したがって、少ない人数(多分5~6人がベスト)と、ホワイトボードに向かって話せる。これがフラットな関係を生み出せる要因だと思った。(もちろん他にもたくさんの要因あると思うが、自分が理解したのはこの2点だっただけ)
・筑波大学附属小学校の研究授業後の検討会の深まりと似ている。
授業の前に指導案の段階でたくさんアドバイスをらったり、先輩方のご指導を受けて、研究授業の前に完璧な状態にする、よくある研究授業ではなくて、授業は自分がやりたいようにやって、授業後にみんなで授業について話し合うタイプの筑波大学附属小学校の検討会と似ていると思った。(筑波大学附属小学校の田中博史先生がおっしゃっていたので、そう判断しました。)筑波大学附属小学校の検討会と、今回の対話型模擬授業検討会の違いは、前者は教科について検討するが、後者は教師のあり方(適切な言葉が浮かばなかった)について検討するという感じ。
しかし、対話型模擬授業検討会は、ふりかえりの質の向上につながると思った。中川綾さんが振り返りで伴奏者になってくれているイメージと繋がったからだ。その振り返りが集団で行える。これを繰り返すことで、検討会は『評価を下される場』ではなく、『自分の成長のための場』として先生たちの認識が変わるのではないかと思った。
日々の振り返りを職場で共有するよりも、授業についての振り返りなら、学校に導入しやすいと感じた。だから、フラットになんでも言い合える場づくりのツールとしては、対話型模擬授業検討会はとてもいいと思った。言い換えると、職場でのコミュニケーションの量をふやすツールとしてはかなり優秀なものだと思う。しかし、ふりかえりは上っ面だけではなく、個人の感情が大事になってくるので、その個人の感情をオープンにできる関係性ができているかどうかの見極めは必要だとかんじた。(対話型模擬授業検討会をすることで、オープンにできる関係を構築することもできるとは思うが、まずはオープンにできる関係性がそこにあるかどうかは結構重要だと思った。)
教科の深まりに繋がりにくいというデメリットはあるようだが、上記のように、職場の環境を改善するためにかなりの効果がありそうだと感じている。
・上條さんの協働的な授業リフレクションと似ている
以前に、上條晴夫さんが提案されている『協働的な授業リフレクション』の会に参加したことがあった。(その時にはあえて授業者をぶった切ってみるへんな役をやってみたが、今でも後悔している。関係性ができていないアウェーの場でやることじゃない。小島さんには今でも申し訳なく思っている)
その会では、①模擬授業→②サークルになって話し合う③ファシリテーターが進行するという感じだった。(けっこう前のことだったのでうろ覚えですが)
上條晴夫さんも、コルトハーヘンさんのALAKTモデルを使って、do・think・feel・wantを使ってふりかえっていた。(気がする)
東京学芸大学教職大学院が提案する『対話型模擬授業検討会』と、上條晴夫さんが提案する『協働的な授業リフレクション』についてもう少し深くしりたいと思った。また、『対話型模擬授業検討会』については、【1時間で終わらない授業】についてどのように検討会をするか、【ワークショップなどの個人個人がそれぞれ違うことをしている場】についてどのように検討するか。考えていきたいと思った。
まずは、『対話型模擬授業検討会』を職場でちょっとずつ広めていこうかなーとは思ってます。だって、直感的に自分にあっている感じがしたので
この思いを大事にしていたい。
全ての子どもが「ここにいていいんだ」って思える。そんな安心できる場をつくりたい。
きっと、そこから子どもたちはいろんなチャレンジを始めていくと思うんだ。
異動しての新学期、この思いを忘れずにいたい。
箱の中の敷き詰め?箱の中のパズル?
日本テセレーション協会の荒木義明さんの紹介で、速水一樹さんというデザイナー(?)クリエイター(?)の人の作品の展示を見に行ってきた。
まったくわけわかめです。
しかし、速水さんに直接話を聞くと、いろんなことがわかってきました。
・作品名は『boxed-in blocks』
・まわりの直方体の箱の比率は整数である
・中の多面体は、点で支え合うものと、辺で支え合うもの、そして面で支え合うものがある。
・1つの多面体は、3点以上が外のケースに触れていれば、成立する。
・作り方の流れは
①外側の直方体箱の大きさを決める。(比は整数)
②内側の多面体の形を決める。
③多面体同士をどこで支え合わせるか決める。
④外側の直方体と接する場所を決める。
⑤展開図を作る
多面体の新たな可能性を見てしまいました。
※速水さんご本人に許可をいただいて掲載しております。
レゴの数学的な可能性
放課後に教室でふとLEGOをいじる。
ジオボードで使っていた輪ゴムをかける。図1
図1
おお!なんかいい!
(ジオボードとは、くいに輪ゴムをかけて形を作るものだと僕は思っています。正式には違うかもしれませんが。図2)
図2
今回ぼくがふとやってみたLEGOの輪ゴムかけは、『糸かけ数楽アートデザイン協会』のLEGOかけ数楽アートの作品を参考にさせていただきました。図3、図4
これを糸にして、糸かけを通して算数を学び、糸かけを通して数学的思考を高めることもできそうです。
アートとして数学を学ぶことの入り口の1つになりそうです。
図3
図4
#レゴかけ数楽アート
LEGOかけ数楽アートのホームページ
https://stringartforza.wixsite.com/stringart/lego
関連書籍
『教科書では学べない数学的思考 「ウ〜ン」と「アハ」から学ぶ』
ジョン・メイソン/リオン・バートン/ケイ・ステイスィー著
吉田新一郎訳
『算数・数学はアートだ』
ポール・ロックハート著
吉田新一郎訳
イチローのレーザービーム!!
「イチローのレーザービーム!!」
野球の実況でいつも気になるのですが、イチローはレーザービームを発射するロボットかなんかなんですかね。
「イチローのレーザービームのような送球」
じゃないんですかね。
比喩の表現のはずが、いつのまにかイチローを機械扱い。
最近では、イチローではない他の選手の、放物線を描くゆるやかな送球を「ジャイアンツの〇〇選手のレーザービーム」と実況する。
みんな機械にしちゃう。
たしか比喩表現って、小学校2年生の国語のスイミーで学んでるはずなんだけどな。
「水中ブルドーザーのような伊勢海老」
「ゼリーみたいなクラゲ」
「黒い大きなマグロが、ミサイルみたいにつっこんできた。」
外野手がボールをホームベースに投げることを『バックホーム』というと思うんです。
そして僕は、イチローはロボットじゃなくて、野球選手だと思うんです。
田中博史先生の授業を見て
田中博史先生の授業を見て
3月3日、朝から夕方まで3本の授業を見て、分析をした。自分は正直かなり疲れた。観察ってすごくエネルギーを使う。普段の自分の教室でも、子どもの様子を観察する時間が多い日は家に帰ってぐったりしてしまうのだが、それと似ていた。
田中博史先生の授業を見て考えたことを残しておこうと思う。
今回の筑波大学附属小学校の算数のスプリングセミナーの参加の目的は、田中博史先生の子どもとの関わりを見ることで、数学的思考を育て、そしてそれを高める教師の関わりとはどういうものなのかを理解することだった。その中でも心に残ったことを以下の3つにまとめた。『語りはじめの言葉』『どうしてお前はあの子に優しくないんだ』『僕の関心』である。
『語りはじめの言葉』
田中博史先生の授業を見に来たつもりだったのだが、実は今日一番ヒットしたのは、森山先生の授業の中での子どもたちの言葉だ。田中博史先生の授業より、森山先生の授業が印象的だったのは、単純に1本目の授業だったからだ。きっと、自分のエネルギーがあって、じっくり見れていたからなのだと思う。とにかく、田中博史先生のクラスの子と同じように語り始めの言葉を使っていたのが大変印象的だった。
森山先生のクラスの子どもたちは、「でも」とか、「たぶん」とか、「ほかにも」と、手をあげながら言う。この発言に思考がものすごく見えたし、可能性を感じた。「でも」と言いながら手を挙げている子は、次に反論がくることが予想できる。そして、「たぶん」と言いながら手をあげる子は、特殊な事例から一般化へつなげようとしていることが予想できる。「ほかにも」と言っている子は、他の特殊な事例をあげようとしているか、その子の中で一般化された考えを他の事例にあてはめてようとしているかのどちらかが予想できる。子どものひとことめの言葉、つまり田中博史先生の言う『語りはじめの言葉』は、子どもがどんな思考の状態なのかを可聴化(聞いてわかる状態)するものだということがわかる。なぜ僕が森山先生のクラスの子の言葉に反応したのか考えてみると、彼らは2年生だったということも理由としてある。僕がイメージしている2年生は「ハイハイ!」と、先生に当ててもらうので精一杯な姿だ。問題に対する答えを伝えるための発表。しかし、森山先生のクラスの子や、田中博史先生のクラスの子は、問いに対して、自分の考えた論理を伝えるための発表なのだ。
隠れたロジックを見つけて、それをみんなに紹介したいという欲求が見え隠れする。
さて、これを個別に関わるときにも使えないか考えた。ワークショップにおけるカンファランス(形成的評価)のときに、子どもの言葉から子どもの思考過程を理解することができるのではないかと考えた。田中博史先生の修士論文での研究だったという語り始めの言葉。ここにカンファランス(形成的評価)の質を上げるヒントが詰まっていそうだ。
『どうしてお前はあの子に優しくないんだ』
田中博史先生の退職記念のセレモニーの中で、田中先生が森山先生に当てた『どうしてお前はあの子に優しくないんだ』という言葉が強烈に僕の中に残っている。今の自分に言われている気がしてならなかったからだろう。
クラスの子との自分のやりとりが浮かんでくる。自分はどうしてあの子に優しくないんだろうって、考えてしまった。
『僕の関心』
森山先生と中田先生の授業の後に協議会があったのだが、自分は協議は正直頭に入っていない。等分除と包含除の話、量と量の計算の話とか、それも大事だとは思うけど、自分は協議会の間、子どもの発言とその思考について考えてしまっていた。
あのときに「習っていないからダメ」と言われた子は、その後、どのような思考をたどるのだろうか、という感じ。ワークショップだったら、習っていないことにアクセスする子どもに対して、僕たちはどのように関わるだろうか。以前に甲斐崎博史先生に質問された「専門性ってなに?」という質問がここでも顔を出してくる。専門性とは教材のことなのか?いや、教師が子どもが考えていることに関心を持っているということなのか?いや、それとも・・・うーん。
改めて自分は、子どもが考えていることに関心が高いということに気づいた時間だった。