牛タンとしみちゃんとカープと

教えることや学ぶことについての自分の考えを言葉にします

筑波大学附属小学校 田中博史先生の授業を参観して考えたこと

2月9日に初等教育研究会が筑波大学附属小学校で開催されていたので、参観してきた。

今回の参観の目的は『田中博史先生の子どもとの関わり方と、自分の子どもとの関わり方の比較』『田中博史先生の数学的思考の刺激の仕方』『盛山隆雄先生の総合活動における子どもへの数学的な関わり方』を感じることだった。

 

しかし、授業を見て感じたことをブワーッと書いたものの、考え直しては書いて、考えて直しては書いてを繰り返して、今になってしまった。気づくことが多すぎて、書きたいことがいっぱいです。

まぁ、思ったことを書いているだけの文ですので、読みづらいと思いますが、お時間のあるときにどうぞ。

 

 

 

 

 

 

会場の門をくぐると、子ども達の元気すぎるあいさつに迎えられた。とにかく参加者が多かった。しかし、筑波大学附属小学校の関係者の方々の見事な流れ作業で迷うことなく目的の教室まで迷うことなくたどり着けた。研究発表で子どもに教室まで案内してもらったのは初めてだった。「どちらからいらしたんですか?」と聞かれ、慌てる32歳。「埼玉です。」と答えると、「埼玉と東京ってどっちが寒いんですか?」と質問され、さらに慌てる32歳。「どっちだろうね。あなたはどう思います?」と聞くと、「埼玉だと思います。」と答えてくれた。「どうして?」と聞きたかったが、教室についたので、案内終了。

その子はちょうど自分が見る授業のクラスの子どもだったようで、授業開始前に教務主任の先生か誰かに「もう案内終わりでいいよ」と言われて教室に入って行ったのだが、その教室に入る直前にも「沖縄と北海道ってどっちが寒いんですか?」と先生に聞いていた。ちなみに、駅から学校に行く途中で、道端にしゃがみ込んで植物の観察をしている子もいた。もうのっけから探究心全開の子どもたち。

 


さて、僕は授業開始1時間前に到着したものの、教室の前の廊下には10列もの人がいた。ざっと見て、廊下だけでも少なく見積もっても100人はいる。もちろん教室の中にもパンパンに人がいる。ざっと30~40人くらい。廊下の近くの階段を登ると教室がかろうじて見えるので、階段から参観をすることにした。階段から授業をみたのは初めての体験だ。

 


それにしても声が聞こえない。耳のそばで蚊が飛んでいるときの音ぐらいしか聞こえない。しかもたまに聞こえるぐらい。しかも階段だから後から来た人のスリッパの音ですぐにかき消される。仕方がないので、子どもたちの動きや先生の動きを観察して、授業の展開の様子を見ることにした。先生が問いかけ、子どもが前に来て説明するあたりは学芸大小金井小の加固先生の授業ににている。そして田中先生が解説をしたり、確認をしたりという感じ。それにしても、学芸大の付属小、埼玉大学の付属小、筑波大学の付属小の算数を見てきて思うのは、子どもがよく話すということ。それはもともとの能力が高いからなのか。しかし、「付属の子だから」と結論付けてしまうと、思考がストップしてしまうので、なぜあの子達はよく話せるのか考えてみた。

もしかしたら発表するハードルが低いことが1つの要因なんじゃないかと思った。田中先生は常に笑顔でいた。なんでも受け止めてくれるオーラがすごかった。あとは日々の積み重ねが他にもたくさんあるのだろう。

 


耳をすませて子どもの発表を聞いていると、「〇〇ならば〇〇だから、〇〇になる」とか、「〇〇だと〇〇になるはずだから、〇〇だ」というように、子どもは根拠をはっきりと言っていた。これだけ話せるのは、日々の授業や学級での取り組みを大事にしているんだろうなぁ。学習指導要領でよく見かける『筋道を立てて話す』というのは、こういう状態を言うのだと思う。こうして、根拠を明確に説明ができるのは、非常に論理的。「たぶんこれがあてはまるなら、全てあてはまると言える」と自分の考えを特殊な事例から一般化しようとする様子があった。この特殊な事例から一般化する思考の過程は、数学的思考の根幹であると最近は考えている。『教科書では学べない数学的思考「ウーン!」と「アハ!」から学ぶ』ジョン・メイソン/リオン・バートン/ケイ・ステイスィー著  吉田新一郎訳の本にも[特殊化]と[一般化]そして、[予想]と[証明]が重要だと書かれている。

 

 

 

 


それにしても、1つの問題(課題か?)からあーでもないこーでもないと議論する。なんだか子どもが意見を発表するというより、子どもがそれぞれ気づいた論理の展開(ロジック)を、みんなに披露するという印象をうけた。友達の論理がおかしければ「いやいや、○○ならば○○

だから違うよ」となり、先生が『ちょっと説明してみて』と言うことで、「○○が○○の時はこうなるから、○○になるはず」と言う感じで論理の展開を修正するという感じ。論理がまとまると、「○○ってこういうことなんだね」とまとまっていく。付属小の算数の先生達を見ていると、曖昧な言葉に明確な説明を求めるという共通点が見えてきた。抽象的な話に対して、具体的な事例を持って説明することで、曖昧な言葉が明確になる。そして、一般化されいく。具体的に説明するために数字や記号が存在しているのだなと改めて思う。

 

 

 

実施、大人でも、論理の展開に気づくと人に伝えたくなることってある。「あ、〇〇だから〇〇なんだ!」という感じ。

一斉に学ぶ中で、わかりきったことを子どもに発表させるのではなく、問題に隠れた論理の展開(ロジック)を発見した人に紹介する場が一斉指導のよいところだということに気づく。

「ねえねえ、見て見て」「ねえねえ聞いて聞いて」って、人間の本能の部分が大きいんじゃないかな。

 


さて、ここで伊垣尚人先生のある実践と繋がった。『科学者の時間』という理科のワークショップである。その実践の中で、子ども達が気づいたことを共有するボードがあるのだが、自分が発見したことを紹介できる場があるのはここにつながるのかもしれない。科学者の時間の凄いところは、その共有ボードを見た子ども達が、自分が気になった他の人の発見を検証していくことだ。『数学者の時間』でも子ども達の気づきを共有するところがある。

 


さて、一斉指導における共有とワークショップでの共有は、自分の発見を話して共有する。そしてそれを聞く。(僕が見えている範囲では、です。)ワークショップの共有は書く以外の方法が多様に選べるし、共有するものがそもそも人それぞれ違う。学習の個別化が行われている。

 


全員が話が得意なわけじゃない。書くことの方が得意な人もいる。というか、そもそも話を聞くだけだと、うまく理解できない人もいる。自分がそれだ。だから共有するのは色々な方法があった方がいいと思う。話して発表することが全員できたらできたでいいかもしれないけど、「話すの苦手だな」と思っている人は、書くことからスタートすればいい。もしくはそれ以外でもいい。そこに先生が選択肢を提供してあげることが大事だなと思う。そうして自分の得意な表現方法がわかってから、いよいよ話すことにチャレンジしたっていいわけだと思う。でないと、「話すの苦手だな」「上手に話せる人はいいな」と思いながら時間だけがすぎてしまう。「聞くのが苦手だな」と思っている人は、聞き漏らさない方法を個別に教えてあげたいと思う。共有することだけでも、それぞれの人にあった学び方を提供していける場を算数ワークショップでは作っていきたいと思うし、それが可能だと思っている。

 


さらに、付属小学校の参観3連発で気づいたのだが、1つの問題をあーでもないこーでもないと議論をし、それぞれの考えを共有しながら問題を解決している。おそらく、数学的思考を高めるためには、人と議論して、人の考えに共感したり、人の考えを批判的に見たり、自分の考えを根拠を持って論理的に話したりすることで高まるのだということがわかってきた。だから、こうした議論をする場というのも算数のワークショップにおいても必要なのだと思う。もちろんいつもできるわけでもない。しかし、先輩達の研究の成果を実際に見て、議論しながら数学的思考を高めることの重要性を感じずにはいられない。

 


実は自分は以前に、子ども達だけで学び合う場を大事にしていた時期があった。1時間で学び合う時間をとったこともあったし、1週間の中で自分で学習の計画を立てて学ぶ時間をとったこともあった。しかし、そのときはこれらの付属小学校で見てきたような深い議論にはなっていなかった。問題が解けたか解けないか。そして、答えと合っているか合っていないかの視点しかなかったのだ。その当時は問題が解けているから安心している自分がいたが、それだけでは数学的思考はなかなか育たないと今では強く思う。この文章を書きながら改めて深く反省している。クラスに賢い子がいたら、子どもだけで学びあうときに、その賢い子の力によってみんなができるようになることもあった。ミニ先生とかでね。「教えるときによく学べるんだぞー」なんて言って。しかし、その賢い子はどのように成長したのか僕にはわからなかった。大学生の学習支援のアルバイトじゃないんだから。その賢い子もさらに成長するためにどうしたらいいのかという疑問を持つようになった。それと同時に、算数の研究校に異動して、算数主任の先生に強く影響を受けるようにもなった。学校の中にモデルがいるのは本当にありがたいことだ。算数主任の授業は、議論の中、つまり、子どもと話し合う中で数学的思考を刺激していく授業だ。「使えそうなことってある?」「本当にそうなの?」「え?確かめてみた?」「他にはないの?」「そこにきまりはある?」など、帰納的な思考や発展的な思考など、片桐重男さんの言う数学的思考がバシバシ刺激されていた。数学的思考を高めたり育てるには、やはり教師の関わりは不可欠なのではないかと思うようになっていた。

 


議論の中で数学的思考を高めること、対話の中で数学的思考を育てることの価値を強く感じた。

 


しかし、子どもを自立した数学的思考者に育てたいと願う自分としては、一斉指導だけでは限界があるということも感じている。色々と課題はあるものの、ワークショップにその一斉指導のいいところと、学び合いのいいところも取り込めるのではないかと思っている。