牛タンとしみちゃんとカープと

教えることや学ぶことについての自分の考えを言葉にします

田中博史先生の授業を見て

中博史先生の授業を見て

 


3月3日、朝から夕方まで3本の授業を見て、分析をした。自分は正直かなり疲れた。観察ってすごくエネルギーを使う。普段の自分の教室でも、子どもの様子を観察する時間が多い日は家に帰ってぐったりしてしまうのだが、それと似ていた。

中博史先生の授業を見て考えたことを残しておこうと思う。

 

今回の筑波大学附属小学校の算数のスプリングセミナーの参加の目的は、田中博史先生の子どもとの関わりを見ることで、数学的思考を育て、そしてそれを高める教師の関わりとはどういうものなのかを理解することだった。その中でも心に残ったことを以下の3つにまとめた。『語りはじめの言葉』『どうしてお前はあの子に優しくないんだ』『僕の関心』である。

 


『語りはじめの言葉』


中博史先生の授業を見に来たつもりだったのだが、実は今日一番ヒットしたのは、森山先生の授業の中での子どもたちの言葉だ。田中博史先生の授業より、森山先生の授業が印象的だったのは、単純に1本目の授業だったからだ。きっと、自分のエネルギーがあって、じっくり見れていたからなのだと思う。とにかく、田中博史先生のクラスの子と同じように語り始めの言葉を使っていたのが大変印象的だった。

 

森山先生のクラスの子どもたちは、「でも」とか、「たぶん」とか、「ほかにも」と、手をあげながら言う。この発言に思考がものすごく見えたし、可能性を感じた。「でも」と言いながら手を挙げている子は、次に反論がくることが予想できる。そして、「たぶん」と言いながら手をあげる子は、特殊な事例から一般化へつなげようとしていることが予想できる。「ほかにも」と言っている子は、他の特殊な事例をあげようとしているか、その子の中で一般化された考えを他の事例にあてはめてようとしているかのどちらかが予想できる。子どものひとことめの言葉、つまり田中博史先生の言う『語りはじめの言葉』は、子どもがどんな思考の状態なのかを可聴化(聞いてわかる状態)するものだということがわかる。なぜ僕が森山先生のクラスの子の言葉に反応したのか考えてみると、彼らは2年生だったということも理由としてある。僕がイメージしている2年生は「ハイハイ!」と、先生に当ててもらうので精一杯な姿だ。問題に対する答えを伝えるための発表。しかし、森山先生のクラスの子や、田中博史先生のクラスの子は、問いに対して、自分の考えた論理を伝えるための発表なのだ。

隠れたロジックを見つけて、それをみんなに紹介したいという欲求が見え隠れする。

 

さて、これを個別に関わるときにも使えないか考えた。ワークショップにおけるカンファランス(形成的評価)のときに、子どもの言葉から子どもの思考過程を理解することができるのではないかと考えた。田中博史先生の修士論文での研究だったという語り始めの言葉。ここにカンファランス(形成的評価)の質を上げるヒントが詰まっていそうだ。

 

 

 

 

『どうしてお前はあの子に優しくないんだ』

 

 

中博史先生の退職記念のセレモニーの中で、田中先生が森山先生に当てた『どうしてお前はあの子に優しくないんだ』という言葉が強烈に僕の中に残っている。今の自分に言われている気がしてならなかったからだろう。

クラスの子との自分のやりとりが浮かんでくる。自分はどうしてあの子に優しくないんだろうって、考えてしまった。

 

 

 

『僕の関心』

 

森山先生と中田先生の授業の後に協議会があったのだが、自分は協議は正直頭に入っていない。等分除と包含除の話、量と量の計算の話とか、それも大事だとは思うけど、自分は協議会の間、子どもの発言とその思考について考えてしまっていた。

あのときに「習っていないからダメ」と言われた子は、その後、どのような思考をたどるのだろうか、という感じ。ワークショップだったら、習っていないことにアクセスする子どもに対して、僕たちはどのように関わるだろうか。以前に甲斐崎博史先生に質問された「専門性ってなに?」という質問がここでも顔を出してくる。専門性とは教材のことなのか?いや、教師が子どもが考えていることに関心を持っているということなのか?いや、それとも・・・うーん。

 

改めて自分は、子どもが考えていることに関心が高いということに気づいた時間だった。